平成25年5月17日

労研饅頭(ろうけんまんとう)

 

4月の愛媛弱問研の定例会では、松山在住の会員さんが労研饅頭を差し入れて下さいました。
出席の皆さん、おいしかったですよね。
こにたんは、いくつもの種類がある中、ヨモギ味のものをいただきました。
松山の高校に通っていた頃にはよく食べていた労研饅頭ですが、その後は口にする機会がなく、30数年ぶりにいただきました。
昔ながらの素朴な味は変わっていませんね。
Oさん、ありがとう。御馳走様でした。
あのときの定例会でもちょっと話題にした労研饅頭の由来ですが、その歴史をたどっていくと大原孫三郎に行き当たります。
大原孫三郎と言えば、そうです、あの倉敷紡績やクラレ、大原美術館などを作った人です。
その大原孫三郎と労研饅頭の深い関係については、10数年前のどこかの民放でやっていたのでご存知の方もおられると思います(実際、会員のお一人はご存知でした)が、なかなか面白い話なので、今回のコラムでも取り上げてみたいと思います。
大原孫三郎と言えば、先にも触れた通り実業家として有名ですが、福祉の分野では岡山に孤児院を開き児童福祉の父と言われている石井十次を資金面で助けた人として知られています。
そして石井十次没後、現在まで続く石井記念愛染園を設立しています。そのほかにも大原奨農会農業研究所、大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、倉紡中央病院などを次々と設立しています。
このように多大なる社会貢献をした大原孫三郎さんですが、どうしてそのようなことができたのでしょうか。
その答えを知るために、孫三郎の生い立ちにまでさかのぼってみましょう。
大原孫三郎は明治13年、岡山県倉敷市に大原孝四郎の三男として生まれました。
大原家は米・綿問屋として財をなし、小作地800町歩を有する倉敷一の大地主で大富豪でした。
明治に入り倉敷紡績が設立され、孝四郎はその初代社長に就きます。
二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎はあととりとして大切に育てられたのでしょう。
勉強が嫌いで、後に岡山の旧藩校である閑谷(しずたに)学校に入りましたが、すぐに学校を飛び出してしまいます。
明治30年には東京専門学校(後の早稲田大学)に入学しましたが、講義にはほとんど出ず、悪友に誘われるままに遊里通いの放埒な日々を送ります。
田舎の金持ちのドラ息子と見た高利貸しがどんどん貸し込んだものですから、孫三郎はたちまち今のお金にして1億円を超える借金を作ってしまいました。
これに怒った孝四郎は、孫三郎を連れ戻すため姉婿の原邦三郎を東京に送ります。
そして借金の始末をさせようとしますが、その交渉の心労のためでしょうか、かわいそうに邦三郎は倒れて急死してしまいました。
倉敷に戻された孫三郎は謹慎となり、邦三郎の実家である藤田家に預けられます。
謹慎中、友人から届けられた二宮尊徳の『報徳記』を読み、「儲けの何割かを社会に還さねばならない」という言葉に感銘を受けます。しかし、大きな転機となったのは石井十次との出会いでした。
岡山の医学校を中退して医師をしていた石井は、身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて岡山孤児院を作りました。
その石井の講演を聞いて、孫三郎は激しい感動につつまれ、石井の事業を資金面から支えることになります。
しかし石井は一時は1、200人もの孤児を集め、資金はいくらあっても足りません。
それでも孫三郎は「一言の小言をも云わずに助力せらる。頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの」と石井が日記に書くほどの全面的な支援を続けたのでした。
一説によると、孫三郎が石井十次に行った支援は、今のお金で数百億円に及ぶとか。この時期の孫三郎の日記には「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記されているといいます。
これは放蕩の末に義兄の命まで奪うことになった孫三郎の自責の念から生まれたものなのでしょうか。
その後孫三郎は倉敷紡績に入社しますが、孫三郎が育ってきた環境とはまったく異なる世界がそこにはありました。
工員が初等教育すら受けていないことに驚いた孫三郎は、工場に職工教育部を設立します。明治35年には工場内に尋常小学校を設立するとともに、倉敷商業補修学校(現在の「倉敷商業高校」)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援しました。
さらに学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。
後に大原美術館のコレクションを集めることになる洋画家の児島虎次郎もこの奨学生でした。
明治39年、社員寮内で感染病を出し社員数名を死亡させた責任を取って父孝四郎が辞任したため、孫三郎は倉敷紡績の2代目社長となります。
社長となった孫三郎はまず飯場制度を廃止しました。当時は口入れ屋が従業員の手配、炊事の請負、日用雑貨の販売を仕切り、法外なピンはねを行っていたのです。これを会社に帰属させるとともに、非人間的な集合寄宿舎をやめて、分散式で家族的な寄宿舎を建設しました。
これには株主からの批判もありましたが、「健全な従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命であり、その施策は必ず会社に還ってくる」と押し切ったといいます。今の多くの経営者が忘れかけた言葉ですね。
日露戦後の不況では、大型合併による紡績業界の再編が進みましたが、孫三郎はこの機に吉備紡績の買収に乗り出します。
買収金額は46万円で倉敷紡績の資本金40万円を上回るものでした。しかし重役や株主が反対するのを意に介さず、「事業に冒険はつきもの、わしの眼は十年先が見える」として、その後も次々と工場を拡張していきました。県下の銀行を統合した中国合同銀行(中国銀行の前身)の頭取となり、電力事業の統合を図って中国水力電気会社(現在の「中国電力」の前身)も設立しました。
こうして孫三郎は、中国・四国きっての実業家といわれるまでになったのです。
大正3年に大原奨農会農業研究所(現在は岡山大学に設備いっさいを寄付し「岡山大学資源植物科学研究所」として存続)を設立し、農業の改善も図りました。
同研究所からは我が国きっての研究者を多数輩出するとともに、桃やマスカットなどの岡山名産の農作物を生み出しました。
大正8年、社会問題の研究機関として大原社会問題研究所(現在は法政大学に資料を移管し「法政大学大原社会問題研究所」として存続)を開設しました。ここは後にマルクス経済学の研究が中心となり、特高警察から警戒されますが、その一方で多くの政治家などを輩出することになります。
大正10年には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所(現在は神奈川県に「労働科学研究所」として存続)を開設しました。
大正12年、倉紡中央病院(現在の「倉敷中央病院」)を設立し、患者本位の治療を目指し工員のみならず市民の診療も行いました。さらに孫三郎は従業員の働く環境を自然と調和しながら人間的、健康的にしたいとの考えから、井戸水を循環させて工場を冷房し、換気塔を設け工場の空気を入れ替え、赤レンガの外壁を蔦で覆いました。
蔦は西日を防ぎ、夏は茂り、冬は落葉して、自然に工場内部の温度調節を果たしました。
倉敷に「アイビースクエア」という赤レンガの施設がありますが、ここは孫三郎が工場に生やした蔦にちなんで名づけられたとか。
さて、労研饅頭のことです。小説「女工哀史」や「あゝ野麦峠」にも描かれているように、この当時の紡績工場などの工員、特に女工さんの中には、工場の過酷な労働や宿舎での不衛生な生活、栄養の不良などで健康を害する人が多くいました。
特に当時不治の病であった結核を患うと工場はやめさせられ、多くは貧しい農民の出であったため帰る当てもなく、ただ茫然と死を待つだけといった悲惨な末路をたどることになります。こうした問題を解決するため、先の倉敷労働科学研究所(以下「労研」と略記します)では工員の健康を維持するため、工員が汚れた手でも安心して食べられ、安価で栄養豊富な食べ物の研究を始めました。
そして、その食べ物として候補に挙がったのが、満州で中国人が主食にしていた「饅頭(まんとう)」と呼ばれる食べ物でした。
次は「労研饅頭ホームページ」に掲載されている老健初代所長である医学博士暉峻義等による「労研饅頭に就て」という一文からの引用です。
「私の二回に渉る満州への旅で、いろいろとその製法に就て学び、これを研究所で造って見たが、どうしても出来がよくない。それで意を決して大連から饅頭製造に慣れた林樹宝君を研究所に呼びよせて、本格的な製造研究に進んだのであった。満州人の常食としているもとのままの製法や形では日本人の嗜好や趣味に適しない、林君が着任してから、いろいろと製法や技術上に苦心した結果、その味や形に於て吾々日本人に親しみのあるものとなるまでには相当の時日を要したのであるが、遂に「これならば」、と思われる吾々の饅頭が出来上るに至った。」
こうして労研饅頭は完成しました。そして労研で作った饅頭ということで「労研饅頭(ろうけんまんとう)」と名付けられたのです。やがてこの労研饅頭は人気を博し、これを販売したいという店が表れました。
これに対し労研では味の統一を守るため、研究所で製法を十分にマスターした者のみに製造の許可を与えました。労研饅頭を製造販売する店は広がり、一時岡山・京阪神を中心に40を数えたと言います。
この労研饅頭が松山に伝わったのは、昭和初期のことです。この当時は世界的な不況の時代です。当時の松山でも、夜学生が学資を得ることが困難となりました。それを見かねた私立松山夜学校(現在の私立松山城南高等学校)奨学会は、夜学生に学資を供給する事業がないかを模索していました。たまたま伝道のため松山に来た倉敷教会の牧師田崎健作から岡山に労研饅頭というよいものがあるとの話を聞き、これをとり入れることにしました。さっそく同奨学会では、退役軍人で熱心なクリスチャンである数学教師竹内成一を責任者に選び、村瀬宝一(後の六時屋タルト社長)を倉敷に派遣して製法を学ばせ、その酵母菌を譲り受けて持ち帰り、さらに先の林樹宝を招いて製造技術を学びました。
こうして松山の労研饅頭は昭和6年に販売が開始され、当時は4個で5銭、松山市内の学校や歩兵第二二連隊などで販売されたと言います。
その後労研饅頭は個人営業の竹内商店(現在の「株式会社たけうち」)が製造販売するようになりましたが、戦火の拡大により、昭和18年には小麦粉も入手難となり、販売休止に追い込まれます。しかし、受け継いだ酵母は守り通され、終戦後には販売が再開され現在に至っています。一方、岡山や京阪神では戦火によって酵母が途絶えてしまい、その後復活することなく、消えてしまったようです。
以上、松山の労研饅頭を通して、大原孫三郎の偉大さに触れてきました。今でこそ企業の社会貢献が声高に叫ばれるようになってきましたが、孫三郎が研究所や病院を次々と設立していった大正時代は、資本主義・自由主義が今日にも増して進み、弱者や貧しい人を社会が顧みることのなかった時代です。
そうした時代にあって、今日にも続く社会福祉や労働問題、社会問題の解決の先駆けとなる事業を次々に起こしていった大原孫三郎という人は、「儂の眼には十年先が見える」という本人の言葉通り、大変な先見の明の持ち主だったのでしょう。いや、ひょっとしたら孫三郎の眼には100年先が見えていたのかもしれません。
ヨモギの味の労研饅頭をほおばりつつ、そのようなことに思いをはせるこにたんでした。

 

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