平成24822

ヘレン・ケラーと忠犬ハチ公

 

これまで何回かサリバン先生の話が続いたので,次はやはりヘレン・ケラーですよね.

815日の終戦の日に,実家で日本酒をチビチビやりながらテレビを見ていたら,NHKのニュースで渋谷の忠犬ハチ公像のことを取り上げていました.丁度おやじが話しかけてきたので,昭和23年の815日にハチ公の銅像が再建されたという,さわりの部分以外は聞き取れませんでした.こにた んの理解では,戦時中に出された金属類供出令に従いハチ公像も供出されてしまい,戦後になって銅像の復活を求める有志の力で再建された,ということかと思 いますが,何やらそれ以上のことも言っていたような.あやふやですみません.

こにたんは,昭和23815日にハチ公像が再建された話は知っていました.が,なぜ昭和23年のこの日かというに,829日に到着予定のヘレン・ケラーの来日に間に合わせようとする要請が,どこからかあったのではないかと考えています.でもこの仮説,どこを探しても証拠になるものはありません.ですから,今回のNHKの放送には期待したのですが,何やら期待外れだったような.ところでなぜそのような仮説に至ったかです.

 

それは,昭和12年のヘレン・ケラー初来日の話から始めなければなりません.ヘレンは,彼女を日本に招いた岩橋武夫,秘書のポリー・トムソンとともに,4月から4ヶ月間,全国の主要都市を巡り,満州にも及ぶ大講演旅行を行いました.その目的は,日米親善と「一般社会に対して盲人教育ならびにその社会問題に対する啓蒙」を図ることでした.

612日には新潟から秋田に入りました.秋田では新聞記者のインタビューに答え,「私は秋田についてよく知っています.秋田犬のふるさとです.秋田犬は,強く立派で,恩義に厚い犬だと聞いています」と話しています.生後19ヶ月で光と音を失ったヘレンにとって,幼い頃の数少ない遊び相手は飼い犬のベルでした.そのためか,大人になってもヘレンの犬好きは続 き,何匹もの犬を飼ったといいます.またヘレンは,来日の何年か前に亡くなった渋谷の忠犬ハチ公のこと,そしてその犬が秋田犬であることを知っていまし た.忠犬ハチ公の話はアメリカにも伝わっていたのです.

このことがヘレンを迎え る秋田の責任者に伝わると,彼らは何とかして秋田犬の子犬をヘレンに会わせようと奔走しました.当時秋田犬を飼っている人は多かったようですが,雑種が進 み,純粋の秋田犬の子犬となると限られていました.そうしたなかで候補に挙がったのが平野政吉という人の「しろ」と,小笠原一郎という人の「神風」の2頭でした.この神風という名は,東京~ロンドン間15千キロを往復した朝日新聞社の飛行機「神風号」にちなんで名づけられたものです.

さて,秋田の講演会の当 日です.しかも会場は秋田犬記念館.舞台裏ではヘレンに会わせる子犬を連れてきた秋田側の責任者と岩橋,ポリーの間で押し問答が繰り返されていました.と いうのも,犬好きなヘレンのこと,かわいい子犬を前に何を言い出すかわからない,アメリカの自宅では既に4匹もの犬が飼われており,また日本犬は飼うのが大変だというのが岩橋たちの主張でした.

講演が始まってみると,どっと押し寄せる人並みにしろはおびえ,ついにケラーのもとへは行きませんでした.これに安心したのもつかの間,生後75日の神風はケラーにすっかりなついて,ヘレンの手からビスケットをもらってはしゃいでいました.やはり岩橋とポリーがおそれたことが起きたのです。こうなると,秋田の責任者も,秋田来訪の記念に何とかこの子犬を差し上げるよう検討しますと言うしかありません.

かくして,秋田犬神風は日本犬として初めてアメリカに渡った犬となりました.しかしこの神風は,アメリカの風土に合わなかったのか,数ヶ月の後に死んでしまいます.その話が日本に伝わると,今度は神風の兄犬の「剣山」が再びヘレンのもとへ送られました.

 

それから11年.戦後のGHQによる占領下,岩橋は盲教育の義務化,盲人の全国組織の結成,盲人のための法律を求め,ヘレン・ケラーに再度の来日を要請しました.GHQの側でも,ヘレン・ケラーの来日を強力にバックアップしました.GHQはヘレン,ポリー,岩橋夫妻のために「パレスタイン号」という特別列車を用意したのです.しかも二人の高官が同行し,そこにはシェフまで乗っていました.

ヘレンは829日,米軍機で岩国に降り立ち,翌30日に東京へ到着しました.いくつもの歓迎の式典の後,95日には日々や音楽堂で講演会がもたれました.ヘレンは,その帰り,車を渋谷に回して,再建されたばかりのハチ公の銅像に立ち寄りました.そしてハチ公の体中を撫で回し,その特徴のあるきりりと立った耳に手が触れると,感慨に堪えかねて声を上げました.

 

「おお,かわいいこの耳.この首の線.神風やツルギヤマ号と同じだわ」

 

なお,Wikipediaの「忠犬ハチ公」の記事では,ヘレンは830日にハチ公像を訪れたとしていますが,これは間違いだと思います.ヘレン・ケラーはその後1028日まで日本全国を回り,

 

『不滅の火を高く掲げてください.そしてその光に照らされた見えず聞こえざる同胞に愛と正義の社会を与えてください.』

 

と聴衆に訴えました.そのようにして,岩橋たちの活動が実り,翌年12月には,待望の身体障害者福祉法が成立し公布されました.盲人たちはヘレン・ケラー来日を契機に,盲人福祉法の実現を望んでいましたが,結果的に盲人福祉法を包含し,これを聾唖者,肢体不自由者などに拡大した身体障害者福祉法が実現したのです.

実は,身体障害者福祉法の国としての目的は,戦争で障害を負った元軍人,すなわち傷痍軍人の救済でした.しかし,GHQは昔の敵を救済することなど,本国の世論の手前もあり到底できません.しかしながら,戦後何年か経つと,旧陸海軍病院に入院していた傷 痍軍人は,生活の目処も立たず,行く当てもなく,中には電車の中で物乞いをする人まで現れました.こうした人々を放っておくと,占領政策に憤怒を抱き,思 想問題にまで発展しかねない状況でした.こうしてGHQは,傷痍軍人を救済することも放置することもできなくなってきました.これは日本政府とて同じです.

そこに舞い込んだのが,盲人岩橋武夫が盲人のための法律を求めて,ヘレン・ケラーを日本に呼ぶという話です.これには日本政府もGHQも喜んだことでしょう.身体障害者福祉法(実は傷痍軍人を助けるための法律)は,ヘレン・ケラーが日本に来たためにできたとしたならば,米本国の批判をかわせるからです.ですから,GHQは破格の待遇でヘレンや岩橋を遇したのです.

 

冒頭の話に戻ります.ハチ公の銅像の再建には,GHQが協力したという話があります.何でもGHQの中の犬好きな人たちが,再建のための募金活動に協力し,除幕式にもGHQの何とかさんが出席したとか.この話と身体障害者福祉法にまつわるヘレン・ケラー,GHQ,日本政府の関係,そして時期的な整合性などから,こにたんは,ハチ公の銅像再建は,犬好きのヘレン・ケラー来日と無関係ではないとにらんでいるのですが,どうでしょうかね.深読みしすぎでしょうかね.

 

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