平成2486

奇跡を起こした人(その2)

 

今回も前回に引き続きサリバン先生のお話です.そして今回は,岩橋武夫という盲人にも登場してもらいます.

 

1931年のこと,フィラデルフィアのテンプル大学からヘレン・ケラーとサリバン先生にドクター・オブ・ヒューマンレタースの学位を贈りたいとの申し出がありました.これは人類文化に貢献した人に特別に与えられる学位とのことです.二人が長年携わってきたAFB(米国盲人援護協会)の活動などが評価されてのことです.しかしこの話にサリバン先生は,自分はただヘレン・ケラーのことを心から思って教育しただけで,そ のような学位に値するほどの者ではないと申し出を断りました.対しヘレン・ケラーは,これを自分のためではなく,悩める盲人同胞の名誉のためにと受けるこ とにしました.

 やがてその受賞当日がやってきました.著名なヘレン・ケラーの学位授 与式ということで,大学でも各界の名士を集め,大々的なセレモニーが催されました.サリバン先生は式典には出席せず,ニューヨークの自宅で留守を守るつも りでした.が,弟子の晴れ舞台を一目見たいとの気持ちも捨てられません.ヘレンのことが心配になり,いてもたってもいられなくなりました.とうとう一列車 遅れてフィラデルフィアまで出向き,会場の隅の目立たない場所に座って,こっそりと式典の様子を眺めていました.

 さて,式典もたけなわ,万雷の拍手をあび,ヘレン・ケラーに学位が授与されました.そして,大学の総長が最後の挨拶に立ちました.

「今日の学位はヘレン・ケラー博士だけに差し上げたものではなかった. 恩師サリバン先生にも差し上げる予定であったが,どうしても先生がお受けにならないので,やむなく今回は弟子であるヘレン・ケラー女史だけに差し上げたの である.しかし我々は今日こうしてヘレン・ケラー女史の大なるを思うとき,これを大ならしめた恩師サリバン先生の功績を思わずにはおられない.これはおそ らく私一人の感想ではあるまいと思う.来年はぜひとも先生にこの学位を得ていただくことにしたい.ついては皆様のご意見をお尋ねする次第であるが,賛成の 方はご起立いただきたい.」

総長のこの提案に,出席者一同感激をもって起立したのですが,その中に あって隅の方に一人だけ立たない人がいるではありませんか.年老いた一婦人,見るとその人はしきりに泣いています.やがてその涙の老婦人こそはサリバン先 生その人であるとわかり,会場の感激は最高潮に達したのです.こうしてサリバン先生は,翌年ヘレンと同じ学位を受けられることになりました.

 

続く1932年,ヘレン・ケラーは,今度はスコットランドのグラスゴー大学からLLDの学位を受けることになりました.婦人としてこの学位を受けるのはグラスゴー大学始まって以来のことでした.その学位授与式には,サリ バン先生も出席しました.光栄ある帽子をいただくため,ガウンを身にまとい白髪の一老女に手を引かれヘレン・ケラーがステージに立ったとき,三千の聴衆の 感激はその極みに達しました.

さて,その席に臨んでいたエジンバラ大学の教授が,あなたがこちらで学位を得たときの光景を思い出したといって岩橋武夫に手紙をよこしてきました.岩橋武夫とは,ヘレン・ケラーの2度の来日を実現させた立役者で盲人です.彼は,早稲田大学在学中に失明し,その後妻とともに渡英してエジンバラ大学でMBAの学位を取得しました.帰国後は大阪にライトハウスを設立して盲人のための社会福祉事業を日本に広めた人物です.先の手紙には次のようなことが書かれてありました.

「あのときには,あなたの奥さんがあなたを助けての学位授与式であった.今回は,サリバン先生がケラー博士を助けての学位授与式である.その光景を見ていて私はあなたが学位を得た時のことを思い出す.あなたも偉かったが奥さんもまた偉かった」

岩橋夫妻は1925年に英国に向けて出版しました.しかし,渡英の直前になり,援助を約束してくれていた篤志家から,支援が難しくなった旨の手紙を受け取 ります.そのため,夫妻の英国での生活は,窮乏の極みの中に始まります.充分に栄養のある食物をとることができないため,妻の手はひび割れて血を吹くこと もありました.夫妻の生活は,その後多くの支援を得て好転するのですが,そうした事情を知っていたこの大学教授は,ケラー女史の学位授与式の光景を前に, 岩橋のことを思い出したのでした.

 

さて,サリバン先生は19361020日に亡くなります.ヘレン・ケラーが岩橋とのかねてからの約束であった 日本へ行く決心をしたのは,サリバン先生が亡くなって間もない頃のことでした.サリバン先生は自分のごとき者のために一生を捧げ死んでいかれた.それなの に自分だけがのん気にしておられようか.サリバン先生の奉仕の生涯,自分もそれを引き継がなければならない.それこそが先生への供養である.こうした進上 の表れが1937年の日本初来日につながったのでしょう.

 

人は出会いにより花開き,崇高な魂は永遠に生き続ける.

 

サリバン先生が生涯をかけて育てた弟子はたった一人でした.しかし弟子の活躍によりその魂は世界中に広がり,数限りない孫弟子を生んだ,そう思うのはこにたんだけではないでしょう?

 

 

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