平成27年2月8日

人とゴリラとチンパンジー

昨年は世界中でいやな事件や事故が多発し、落ち着かない1年でした。今年はひつじのようにおとなしい1年であってほしいと願っておりましたが、年明け早々フランスでイスラム教徒を名乗る二人がムハンマドの風刺画を掲載した雑誌者を襲撃するという事件が起きました。それ以来、キリスト教徒とイスラム教徒の間の争いは、ますますエスカレートしそうな気配です。また、スイスフランが一瞬で4割も上げるというとんでもないことも起きました。世界中の富豪が最後の金庫として信頼を置いているスイスでさえも、そのような大波乱に見舞われました。さらに昨年来行方不明だった日本人がイスラム国と称するわけのわからない集団に人質に取られ、二人が殺されたかもしれないと言います。世界ではこの先何が起きるのだろうと、大きな不安を感じます。どうやら、今年も世界はこにたんの希望通りにはいかないようですね。それどころか、昨年来の石油をはじめとする商品の下げが今年は株式に波及し、やがて債権にも波及して世界中の経済がメルトダウンする・・・なんて恐ろしい予測をしている人までいます。嫌ですねえ。そんな予測はどうか外れてほしいものです。さて、年明け早々縁起の悪いことを書いてしまいましたが、世界とか日本全体とかの大きな流れは、故人のレベルではどうにもなりません。しかし、せめて頭の中だけでも、人間社会がどうあるべきか、あるいはどうあって欲しいというようなことを考えておくのも、悪くはないと思います。それは、大きな混乱が生じた際の、思考の原点になるからです。そこで、今回のコラムは猿の話です。思い切り、原点に帰ってみようという話です。
一昨年と昨年に、京都大学総長の山極寿一さんが著された2冊の本を読みました。一つは『ゴリラ』という本で、一つは『「サル化」する人間社会』という本です。以前のコラムでベジタリアンについて取り上げましたが、その頃、「人間にとってどのような食生活が望ましいんだろう」と考えていて、その参考に読んだのが『ゴリラ』でした。そのときこにたんが考えたのは、人間は火を覚え農業や牧畜を覚えたことで、それまでとは大きく異なる食生活を始めた。しかしこれは、ここ数万年のことに過ぎない。人間は今では砂糖をはじめとして工業的に製造された多くの食品を食べている。しかしそのような食品は安全なのだろうか。生物はそんなに簡単に食生活の変化に適応できるものだろうか。いや現代の様々な病気は、人間の食生活の変化によって引き起こされているのではないか。であればむしろ、人間の祖先がチンパンジーやゴリラに近い生活を送っていた数百万年から数千万年前に食べていたものを食べていくことの方が、人間にふさわしい健康的な食生活ではないのか。そうであれば今のゴリラやチンパンジーが何を食べているのかが参考になるのではないか。そのように考えて、『ゴリラ』を読んでみたのです。そしてこの本がおもしろかったので、昨年ふたたび同じ著者の別の本を読んでみたというわけです。
これらの本を読んでみると、食べ物の面ではゴリラは葉っぱを中心にし、季節の果物を補助的に食べ、蟻など動物性のものをほんのわずか食べるという食生活を送っていることがわかりました。これに対し、チンパンジーは果物を中心にし、果物が不足する時期には葉っぱや樹皮などを食べ、動物性のものとしては蟻などの昆虫に加えときによっては小型の猿などを捕まえて食べていることがわかりました。チンパンジーって、意外に獰猛なんですね。そういえば、明治時代の何とかっていう学者が、穀類+野菜、果物、肉類を5:2:1の比率で食べるとよいと唱えています。これは哺乳動物の歯は食べるものによってその形が適切になるよう進化しており、人間の歯は穀類や繊維質の多い野菜を食べるための臼歯が20本、果物を食べるのに便利な門歯が8本、肉類を食べるのに便利な犬歯が4本の構成となっているため、先の穀類+野菜が5、果物が2、肉類が1の比が丁度良いとする考え方です。この考え方は、近年のゴリラやチンパンジーなどの観察の結果からも正しそうですね。それから先の本で注目すべきは、ゴリラはときには土を食べたり他のゴリラが残した糞を食べたりすることもあるということです。これは腸内微生物の調整を行うための習性ではないかといいます。人間がヨーグルトや納豆を食べるようなものでしょうか。ともあれ、ここまではこにたんのベジタリアン生活、正しそうです。
しかしその一方で、人間がゴリラやチンパンジーと枝分かれした頃、人間の祖先は森からサバンナの草原へと進出しました。そして、2本足で歩き、道具を使い始め、その頃から動物を狩りして食べ始めたとする説があります。人間の祖先はその頃から肉食中心になったという説です。陸上の動物でフルマラソンの距離を最も早く走れる動物は人間だとかで、我が人間の祖先は2本足で歩き始めたことで長距離をあまり疲れずに走れるようになりました。人間はその特徴を生かし、おそらくは牙や角のない動物をひたすら追っかけ、くたびれて座り込んだところを棍棒か何かでたたいてしとめるという狩りをするようになりました。そして捉えた獲物を石のナイフで皮をはぎ、肉をそぎ、、石の斧で頭を割り、骨を砕いて中身を食べ始めました。ま、以上は仮説ですけど、おそらくはそれなりに当たっているのではないでしょうか。こにたんのベジタリアン、大丈夫かな。しかし、問題は肉をどれぐらい食べるかです。いくら長距離を走り道具を使えるようになったとしても、狩りがいつも成功するとは限りません。おそらくはゴリラやチンパンジー同様に葉っぱや果物が手に入る時期はそういうものを食べながら、人間は何百万年もかけて動物を狩る技術を磨いていったのではないでしょうか。ですから結論としては、やはり野菜や果物を食生活の中心に置き、そこに少量の動物性の食品を添えるという、コニタンが行っているちょっと不真面目なベジタリアン生活は正しいように思えます。なお、歴史的に見ると、人間が穀物を食生活の中心に置くようになったのは農耕が始まって以降のことで、その歴史は浅く、その点では穀物はあまり多く食べない方がいいのかもしれません。
さて、先の2冊の本には、人間の社会形成や子育てに対しても、示唆に富む内容が書かれています。人間は家族という基本的な集団を作り、しかも複数の家族が集まって地域社会などの共同体を作っています。このように人間の集団は二重構造になっていますが、これは他の動物にはない習性だそうです。というのも、家族と家族的でない集団では、まとまりを作る原理が異なっています。すなわち、家族というのはお互いを依怙贔屓しますよね。親は子供を依怙贔屓し、他人の子どもよりも自分の子をかわいがる。しかも親は子供に愛情を注いで世話をし、それに対し代償を求めない。それでも親は幸せです。これに対し、地域社会というのは誰とでも平等に付き合わないといけない。だれかを依怙贔屓するとうまくいかない。してもらったことに対してはお返しをしなければならない。こういう相反する原理をバランスを保ってやっていけるのは人間だけなのだとか。ゴリラや猿の集団はどちらかしかない。で、どちらがどちらかというと、ゴリラは家族的な集団を作り、ゴリラ以外の猿は家族的でない集団を作るそうです。
少し詳しくゴリラや猿の集団について見てみます。まずゴリラです。ゴリラは10頭前後で群を作り、通常、大人の雄1頭と1頭以上の大人の雌、そしてその子供たちで構成されます。ゴリラの雄は成長すると背中の毛が白くなり、これをシルバーバックと呼びます。雄はシルバーバックになると群から離れ、1頭で行動を始めます。やがてそのシルバーバックは、別の群と接触する機会を持ちます。そのとき群の雌がそのシルバーバックに好意を持つと、その雌は群を出てそのシルバーバックと行動を共にし始めます。こうして一つの家族が始まります。群を離れて別のシルバーバックのもとへ行くのは、独身の雌だけではありません。すでに子供がいる雌も、別のシルバーバックのもとへ行くことがあります。また、既に多くの雌や子供を持つシルバーバックのもとに雌が行くこともあります。ゴリラの家族は、一夫多妻制です。人間社会から想像すると、一夫多妻制の場合、雌同士の間で嫉妬や争いが起きそうですが、ゴリラの雌は互いに無関心でそういうことはありません。
発情期は月経周期の間に2、3日だけで、交尾は雌が誘います。発情した雌はシルバーバックにそっと近づき、目を見つめ、肩や手を触り、静かに立ち去ります。そして雄から2、3歩離れたところで再び雄を振り返ります。そしたら雄はたまらなくなって、雌に突進し、後ろから雌を抱きかかえてクルクルクルという声を出して交尾します。交尾時間は約1分です。雄には雌の発情はわからないので、誘うのは必ず雌です。しかも雄は雌に誘われたら必ず応えます。このように、ゴリラの群では交尾の相手を選ぶのは雌であり、しかも雌の相手は1頭のシルバーバックなので雄同士が雌を求めて争うということはありません。このあたりは人間の家族によく似ていますね。
子供は生後6か月ほどは母乳だけですが、その後は少しずつ固形物を食べ始め、完全に乳離れするのは2。5年から3年後です。生まれて1年ほどは母親だけで育てますが、その後はシルバーバックに子供を預け始めます。こうして、雄も子育てに参加します。雌が次の子どもを産むまでの周期は平均5年で、これはチンパンジーも同じです。人間は年子も可能なので、ここはおおきく違いますね。なお、ゴリラは他の猿と異なり、強い者が弱い者に食べ物を分け与えるという行動を見せるそうです。ゴリラは食べ物の分配を通じて、仲間内の親密さを保っているのです。これは人間に似ています。
ゴリラは縄張りを持たず、群は食べ物を求めて移動します。雌が別の群に移るのは、群同士が接触する場合なので、群の接触には緊張感が伴います。ですからゴリラの群同士は敵対的で、人間のように複数の家族が協力し合うということはありません。その一方でゴリラは群の内部で序列を作りません。群の内部で争いが始まってもどちらが勝ってどちらが負けるという状態にはなりません。じっと見つめ合って、仲直りをします。争いが続くとシルバーバックが間に割り込み、争いをおさめることもあります。なお、猿にとって視線を合わせることは敵意を示す行為であり、通常、猿同誌は視線を合わせません。しかしゴリラだけは視線を合わせることでお互いを理解しようとします。これは人間に似ています。おそらく家族を作るというゴリラの習性がこのような特徴を生んだのでしょう。ちなみに人間には白目がありますが、他の動物は白目がないそうです。え、そうでしたっけ・・・。というのも、白目があるというのは相手に視線を悟られ危険なのですが、人間はその危険よりも、視線を合わせることによるコミュニケーションの利益のほうを選んだのだそうです。
こうしたゴリラの特徴に対し、チンパンジーの特徴を見てみます。まず群の作り方ですが、チンパンジーは縄張りを持ち、その中に複数の雄がいます。雄同士には序列があり、諍いが起きれば、大勢が強いものに加勢して弱いものをやっつけてしまいます。雌は発情すると性器の周りが赤くなります。しかも発情期間は2週間にも及びます。発情した雌がいると雄が集まってきて次々に交尾を始めます。交尾の時間は7秒と短いのですが、雄は1日何十回も交尾します。雌は複数の雄を受け入れ、妊娠するまでに数百回から千回も交尾します。こうして雌は雄に対して子供が誰の子だかわからなくすることで雌をめぐる雄同士の争いを避け、群のどの雄にも繁殖成功の可能性を与え、複数の雄の共存を可能にしているのです。雌の知恵が光りますね。このように雄が自分の子どもが誰かわからない、あるいは群の内部で複数の雄と複数の雌が乱交関係にあることから、チンパンジーは家族を作らないということになります。
さて、人間についてです。先にも書いたように、人間は家族を作り、しかも同時に共同体も作ります。そしてこれが難しいことであることも書きました。ではどうして人間は他の猿にないこのような特質を身に着けたのでしょうか。山極さんによると、それは子供の存在に鍵があると言います。人間の家族がゴリラに似ていることからも、人間はもとはゴリラのような一夫多妻の家族を作っていました。人間が森を出て平原に進出するようになると、肉食動物に狙われるようになります。特に子供が狙われやすい。そうすると少なくなった子供を補わなければなりません。そのため、人間は妊娠の間隔を縮め、多産になった。ゴリラやチンパンジーは一生のうちで5頭ぐらいしか生めないのに対し、人間は10人ぐらい埋めるようになった。そのためにどのようにしたかというと、授乳の期間を縮めた。授乳しているとプロラクチンというホルモンが出て排卵が抑制されますが、授乳の期間が短いと次の排卵も早くなるというわけです。でも、早く離乳したからといって子どもが自分で食物をとって食べられるわけではない。誰かが食物を運んでやる必要がある。母親は次の子どもの出産で忙しい。こうしたことから、人間は共同保育を始めたということだそうです。そして、複数の家族が協力し合うようになり、地域社会のような共同体ができあがったとのことです。
また人間の脳の肥大化も、共同体の形成の要因となっているといいます。すなわち、今から200万年ほど前、人間の脳が肥大化した。この時期になると2足歩行を始めてかなりになるので骨盤の形がお椀状になり、産道の大きさが制限されるようになった。そうすると頭の大きい子供が産めない。だから頭が小さいうちに出産し、生んだ後に大きくするようになった。しかも脳はすごくエネルギーを消費する機関だから、、エネルギーが体の成長に回りにくい。そのため、人間の子どもは成長に時間がかかるようになった。こうして頭でっかちでなかなか成長しないたくさんの子どもをかかえた人間は、ますます共同保育をしなければならなくなった。なるほど、おもしろいですね。
このように家族を単位とし、複数の家族が集まって共同体を作り進化を遂げた人間ですが、山極さんによれば、いまこの家族が崩壊しつつあるといいます。以下、『「サル化」する人間社会』からの抜粋です。
「「改めて家族というものを定義してみると、それは「食事をともにするものたち」と言うことができます。どんな動物にとっても、食べることは最重要課題です。いつどこで何を誰とどのように食べるか、ということは非常に重要な問題です。そして霊長類の場合、なかでも「誰と食べるか」が大事なのです。ともに食べるものをどう選ぶか、その選び方で社会が作られていくからです。人類の場合は、食を分け合う相手は基本的には家族です。何百万年もの間、人類は家族と食をともにしてきました。家族だから食を分かち合うし、分かち合うから家族なのです。しかし、その習慣は今や崩れかけていると言えます。ファストフード店やコンビニエンスストアに行けば、いつでも個人で食事がとれてしまいます。家族で食べ物を分かち合わなくても、個人の欲望を満たす手段はいくらでもあります。家族でともに食卓を囲む必要性は薄れ、個人個人がそれぞれ好きなものを好きなときに食べればいい時代になっています。この状態は、人類がこれほどまで進化したことの負の側面とも言えるでしょう。コミュニケーションとしてあったはずの「共食」の習慣は消え、 「個食」にとって代わられつつある。食卓が消えれば、家族は崩壊します。人間性を形づくってきたものは家族なのですから、家族の崩壊は、人間性の喪失だと私は思います。そして、家族が崩壊すれば、家族同士が協力し合う共同体も消滅していかざるを得ません。」
家族や共同体が崩壊した後にくるもの、それは猿の社会そっくりなものになると山極さんはいいます。猿の社会は先にチンパンジーの例でも書いたように序列社会であり、強い者と弱い者がはっきりと分かれる社会です。そこでは個人の利益のみの追求がなされ、互いに協力したり共感し合う必要のない社会です。誰かが苦しんでいてもそんなことはどうでもいい。自分のことさえよければいい。これが猿社会です。そんな社会って、来てほしくないですよね。こういう社会になって真っ先に切り捨てられるのは、我々のような障害者なのですから。でも、最近の新自由主義の横行やその結果もたらされた貧富の較差の拡大などを見せられると、山極さんのいう「猿社会」は、もうそこまで来ているのかもしれません。今年に入って起きた様々な事件もその現象の表れではないでしょうか。ほんとうにいやな世の中になったものです。こにたんにとって、家族ほど大事なものはありません。誰が何と言おうと、家族や共同体は守っていきたい、そんな思いにかられるこにたんでした。

戻る

inserted by FC2 system