平成25年1月15日

奇跡のリンゴ


皆様、明けましておめでとうございます。
昨年の9月以来、休む間もなく働かされておりまして、コラムをさぼっていたら、いつの間にか年が明けてしまいました。この年末年始はゆっくりと充電できましたので、コラムを再開したいと思います。今回はちょっと季節外れですが、昨年暮れに読んだ「軌跡のリンゴ」のお話をご紹介します。「奇跡」シリーズの続きです。
この話は、10年ほど前にNHKで放送されたのでご存知の方も多いと思いますが、一昨年の3。11以来、自然とどのように向かい合っていくべきかが問われている昨今、これに大きな示唆を与えてくれる話として改めてご紹介したいと思います。

「奇跡のリンゴ」とは、岩木山のふもと、青森県弘前市の木村さんという農家が育てているリンゴのことです。何が奇跡かというと、そのリンゴ、驚くべきことに無農薬・無肥料で育てられているのです。後で説明しますが、リンゴは害虫や病気に弱く、農薬なしでの栽培は不可能とされていました。木村さんは、その不可能を可能にしたのです。
しかし世は健康ブーム、無農薬だけならありそうな話ですが、木村さんは何と肥料もやらない。堆肥もやらない。その結果まずくて売れないリンゴでは話になりませんが、それがおいしいとくるから奇跡なのです。私は食べたことがないのでどれほどおいしいかはわかりませんが、木村さんのリンゴは、もはや何かのつてでもないと手に入らないとか、木村さんのリンゴのスープをメニューに載せている東京白金台のレストランでは、半年先まで予約が入っているとか、ネットで検索すると、「奇跡のリンゴ」の後にジュース、ヨーグルト、ケーキ、パン、あめ、かりんとう、あられ、日本酒、スープ、化粧品、タルト、ポン酢・・・などの言葉が続く商品が数多く見つかるなど、とにかく大きな注目を集めているようです。また、リンゴを半分に切って置いておくと、普通のリンゴなら切り口がすぐに黒くなりやがてカビが生えて腐ってしまいますが、木村さんのリンゴはカビも生えずそのまま乾燥して小さくなるだけとか。へえ、どうなっているのでしょうか。そんなリンゴなら、食べてみたいものです。

木村さんは昭和24年、青森のリンゴ農家に生まれました。もともと機械物が大好きで、おもちゃや時計などをばらしては組み立てるといった遊びに没頭する少年でした。高校を卒業すると、次男であった木村さんは川崎の会社に就職しますが、やがて実家の近くのリンゴ農家に養子に入り、農業を始めます。木村というのはその養子先の姓です。こうして農業を始めた木村さん、4枚のリンゴ畑に加え、米やトウモロコシの栽培も手がけていきました。当時は農業に農薬は不可欠とされていた時代です。特にリンゴは年間十数回にもおよぶ農薬散布が必要でした。生真面目な木村さんは、最初は教科書どおりに農薬をまいていました。しかし、木村さんの奥さんは農薬に弱い体質でした。農薬散布のたびに体に湿疹ができ、時には一週間も寝込むほどでした。
リンゴは旧約聖書にも出てくるように、昔から人が親しんできた果物ですが、昔のリンゴは小さくてすっぱく渋いものでした。そのリンゴがアメリカに渡り、19世紀に改良されて今のリンゴに近いものになったのです。味がよくなり、大きな実をつけるようになったリンゴの木ですが、それに反比例するように病気や害虫に弱いものとなっていきました。そしてリンゴはいつしか、農薬なしでは栽培不可能なものになっていたのです。
リンゴが日本に入ってきたのは、明治初期のことです。税収を増やしたいときの政府は、アメリカからリンゴの苗を取り寄せ、商品作物としてリンゴ栽培を全国の農家に奨励したのです。しかし、りんごの栽培面積が増えるに従い、病気や害虫の被害が目立ち始め、明治後期には多くの県で壊滅的な被害を出します。当時はまだ農薬が開発されておらず、栽培技術も未熟だったのです。その結果、多くの県ではリンゴ栽培を断念し、次々と養蚕に切り替えていきました。しかし、気候の厳しい青森では桑は育ちません。青森の農家はリンゴを諦めることができなかったのです。やがて農薬が導入され、青森のリンゴ栽培も徐々に安定していくことになります。このように明治時代から害虫や病気と闘ってきた経験を持つ我が国のリンゴ農家の間でも、リンゴ栽培に農薬は不可欠というのが常識となっていきました。しかし苦しむ奥さんを前にした木村さん、やがて農薬の使用を少なくすることを考え始めます。

こうして木村さんの闘いは始まりました。4枚の畑のうち、最初の年、農薬散布を1枚は年に1回、1枚は年に3回、残りの2枚は年に5回の散布に減らしてみました。しかし、年に1回に減らした畑でも、修了は半分程度に落ちたものの想像したほどのダメージは受けませんでした。これに気をよくした木村さんは、翌年には1枚だけ完全な無農薬にしてみました。すると7月に入り病気が出始め、害虫も付くようになりました。木村さんはリンゴの病気を何とかしようと、酢やわさび、にんにくなど人に無害で殺菌効果があるものを試してみました。害虫は家族総出で1匹ずつ手作業でとって行きました。しかしその努力も空しく、リンゴの葉は黄色く変色し、虫にも食われ実は育たず、9月にはほとんどすべての葉が落ちてしまいました。10月になると裸になったリンゴの木に花が咲きました。葉が落ちてしまったのを冬だと勘違いしたリンゴの木は、小春日和の日に狂い咲きしたのです。その花は翌年咲くはずのものであり、それは翌年も実がならないことを意味していました。
木村さんの最初の取り組みは失敗に終わりました。しかし、それにもめげず、翌年には別の1枚を無農薬にしました。そして、この年もすべての努力は実りませんでした。さらに翌年にはすべての畑を無農薬にしました。そしてやはりリンゴは実りませんでした。木村さんのリンゴ畑からの収入は途絶えました。木村さんが行ったどのような取り組みも功を奏さず、最後に木村さんがしたことは、木に話しかけることでした。
「無理をさせてごめんなさい。花を咲かせなくても、実をならせなくてもいいから、どうか枯れないでちょうだい」
しかし、そんなことがリンゴの木に通じるはずはなく、木は次々に枯れていき、800本あったリンゴの木は半分に減ってしまいました。

木村さんには妻と3人の子ども、そして儀父母がいました。収入の途絶えた7人の家族は路頭に迷います。電気や電話は何度も止められ、子どもには学用品すら買ってやれませんでした。学期の初めには、長女が一つの消しゴムを3等分し、妹たちに分け与えました。短くなった鉛筆は、2本の背中と背中をセロテープでつないで使いました。
ある日、先生が深刻な顔をして木村家を訪ねてきて、娘の書いた作文を差し出しました。そこには「私の家はリンゴ農家です。しかし、私はお父さんのリンゴを食べたことがありません。「」と書いてありました。しかし、これは娘が貧乏な生活が嫌で書いたものではありませんでした。木村さんが珍しく弱音を吐いたことがあります。
「もう諦めた方がいいかな」
いつもはおとなしい長女が、それを聞いて色をなして怒ったのです。
「そんなの嫌だ。なんのために、私たちはこんなに貧乏してるの。」
父親の夢は、いつしか娘の夢になっていたのです。

何の成果も出ないままに、こうした生活が5年も続きました。最後には食料も底をつき、畑の雑草で飢えをしのぐほどでした。万策尽きた木村さんは、家族を巻き添えにしていることがいたたまれなくなり、7月のある日、ついに自殺を決意しました。手近にあったロープを手に、家族が寝静まった頃、ひとり岩木山に分け入りました。やがて手ごろな木を見つけ、枝にロープを掛けようと投げ上げたところ、ロープは宙を舞い、藪の中に落ちてしまいました。
ロープを拾おうと藪に入ったところ、たわわに実ったリンゴが目に飛び込んできました。我に返って良く見ると、それはどんぐりの実でした。しかしその時はっと気付いたのです。山の木は消毒もせず肥料もやらず手入れもしないのに、毎年当たり前のようにして実をつける。それはなぜだろう。そう思って土を掘ってみると、掘ってもほっても土はふかふかで柔らかく、匂いも畑の土とは違っています。また山の土は深いところまで暖かく、木村さんは目に見えない小さな命がここで生きているのだと思いました。
「これだ、これだ、これが答えだとな。あの山中で、踊り出したい気分であったな。ほんとにバカだからさ、自分が何のために山を登って来たかも忘れて、ロープのことなんてすっかり忘れてよ、今度は駆け足で山を下りたわけだ。一刻も早く自分の畑の土の状態を見て、何をするか考えたかったからよ。下り坂だからな、一時間ちょっとで麓の畑まで下りたんでねえべか。それでも、夜中近くになっていたな。あんまり私の帰りが遅いもんで、美千子が子供を連れて畑まで様子を見に来ていたよ。心配していたんだろうけど、私があんまり意気揚々としているもんだから、狐につままれたような顔をしていたな」
山の土は枯れた下草や落ち葉を微生物が分解して土にし、その栄養豊富な土が木の元気さの源となっていたのです。自然の中に、孤立して生きている命はないのです。山ではすべての命が、他の命と関わり合い、支え合って生きていました。そのことに気付いた木村さんは、リンゴ畑に大豆を植え始めました。大豆に付く根粒バクテリアの力をリンゴの木の肥料として使おうとしたのです。加えて、雑草を刈るのをやめ、リンゴ畑を山の自然に近づけようとしました。翌年には春から大豆を蒔き、雑草もいっさい刈りませんでした。木村さんの畑では虫が鳴き蛙が跳び野兎が走り、やがてリンゴの木も少しずつ元気を取り戻し始めました。
翌年の春、木村さんのリンゴ畑には7輪の花が咲きました。木村さんが無農薬・無肥料栽培を始めて8年目のことです。秋には、その花から2個のリンゴがなりました。苦闘の末に実ったたった二つのリンゴです。木村さんはそのリンゴを神棚に乗せ、家族全員で食べました。その味は、永年リンゴを作ってきた木村さんでも、過去に味わったことのないおいしいものでした。翌年の春、木村さんのリンゴ畑はまっ白い花で覆われました。こうして、木村さんの無農薬・無肥料のリンゴ栽培は成功したのです。

それから20年。木村さんは同じような農業を志す人々から請われて、農業の指導に講演にと日本全国から引っ張りだこです。ときには、外国からも依頼があるとか。テレビで有名になってからは、身の上相談のような電話も多くなったといいます。
「自殺を考えてたっていう若い人からも電話あったな。大学院まで出た人なんだけどもな。親には学費やらなにやらでたくさん金を使わせてしまったそうだ。だけど何をやっても駄目で、就職口もないし、家へも戻れない。それで死ぬことを考えていたんだけど、あのテレビ見て思い直しました、やっと生きる気持ちが湧きましたとな」
木村さんの経験した苦労や挫折の大きさに比べたら、自分の悩みなんて悩みのうちにも入らないことがわかったと、若者はきっぱり言ったのだそうです。「木村さんはそういう時、どんな話をするんですか」との問いに、ちょっと考え込んで、
「……うん、とにかく思い直して良かったねえと言ったかな。それから、バカになればいいんだよと言いました。バカになるって、やってみればわかると思うけど、そんなに簡単なことではないんだよ。だけどさ、死ぬくらいなら、その前に一回はバカになってみたらいい。同じことを考えた先輩として、ひとつだけわかったことがある。ひとつのものに狂えば、いつか必ず答えに巡り合うことができるんだよ、とな」

「死と再生」、そういう言葉が頭をよぎるお話でした。なお、「奇跡のリンゴ」のお話は、現在映画化されていて、今年の3月封切だそうです。どんな映画になるのか、楽しみです。

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