平成24625

一本のホウキが生んだ世界の奇跡

今回は,昔,ネットで読んだちょっといいお話の紹介です.

これは,ニュー・イングランドにある精神病院で働く,名も知れぬ,普通のお掃除のおばさんのお話です.

彼女のはたらく病院の地下室には,「緊張型精神分裂病」と診断された10歳の 少女の患者がいました.

何に対しても反応を示さず,ただ暗い地下室のベットにうずくまっているだけ.少女は,もう回復の見込みはないと,考えられていました. 世界から見放され,一言も話すことなく,胎児のように丸まったまま,決して動こうとはしなかったのです.

以前はとても可愛らしい少女だったのですが,いまや日々,やせ衰えていくばかり...

彼女は,そんな少女の個室のまわりを,毎日掃除をしにやってきました.そして,ドアの下のすきまから,食事をホウキの柄で,中に押し込みます.

彼女にも同じくらいの歳の娘がいたせいか,少女を不憫に思いますが... ただの掃除婦,もちろん,何もしてあげることはできません. そこで彼女は,せめてそこを去る前に,うずくまる少女の肩を,ホウキの先でそっとつついてあげることにしました.

「ねえ,あなたはひとりじゃないんだよ.少なくとも,ここにあなたを気にかけている人間がいるんだよ.」

という思いを伝えたかったのです.

掃除のおばさんには,この程度のことしかできませんでした.

ほんの小さな愛の実践です.ホウキの先ほどの... 

でも,その程度のことしかできなくても,ただただ,伝えたかったのです.

だから,くる日もくる日も,彼女は,ホウキの先で,その少女を優しくつつき続けました. そして,何週間か経ったある日のこと.小さな変化が起こりました. ただ死を待つばかりだった少女が,なんと,自分の手で,食事を受け取るようになったのです.

さらに時が経つにつれ,少女は座ることもできるようになり,掃除婦のおばさんと話をすることまでできるようになったのです! お医者さんたちでさえ,完全にお手上げだったのに??

こうして少女は,やがて奇蹟ともいえる回復をとげることができたのです.

それから何年か経った,あるうららかな春の日.

その精神病院の院長は,アラバマ州のひとりの紳士から,ある依頼を受けました.その紳士のお子さんが,重度の障害児で,世話をしてくれる人を探しているというのです.

その頃,あの奇跡的な回復をとげた少女は,20歳になっていました.

院長は,自信をもって,その彼女を,紳士に紹介しました.

彼女の名は,アニー・サリバン.

そう,ヘレン・ケラーの偉業を生みだした教師です! 

地下室でただ死を待つしかなかった,あの少女です.

お話は以上です.

どうですか?

いいお話でしょ?

昨年の3.11以来,人と人との絆のありがたみをしみじみと感じる今日 この頃です.そんな日本からすれば,戦争に明け暮れ,金融ばくちにうつつを抜かす獣のようなアメリカ.しかし,かの国にも,かつては貧しい時代があり,人 の心があったことを思い出させる,ちょっと安心させられるお話でした.

こにたんがこのお話をネットで見つけたのは,今から10数年前のこと.googleで検索してももうそのサイトは見つかりません.でも,同じ話が多くのサイトで,しかも微妙に変化して生き続けていました.それらのサイトをいくつか読んだ中で,昔読んだのと一番近かったのが上のものです.

ところで,「奇跡の人」というヘレン・ケラーを扱った古い映画がありま す.井戸からくみ上げた水に手を触れたヘレンが,「ウォーラ」と発音する場面が心に残る映画ですが,あの映画の「奇跡の人」とはヘレン・ケラーのことでは なく,ヘレンを育てたサリバン先生のことだという説があります.つまり,「奇跡の人」というよりも,「奇跡を起こした人」というのが主題だそうです.しか し,上のお話が本当なら,「奇跡を起こした人に奇跡を起こした人」の話を付け加えなければなりませんね.しかも,その人が掃除のおばさんだったとは,そし て誰にでもできる小さな愛の実践によるものだったとは,救われる思いがしますね.

さて上の話ですが,東京ヘレン・ケラー協会が発行する雑誌『点字ジャーナル』の20073月号で取り上げられて,その信憑性に疑問が示されています.同記事はネットで読めますので,詳細は省略するとして,記事中からサリバン先生の生い立ちを拾っておきます.

愛称「アニー」ことアン・サリバンは1866年,マサチューセッツ州フィーディングヒルにおいて,貧しいアイルラン ド移民の子として生まれた.幼少期は過酷な生活状態で5人兄弟のうち成人したのは彼女を含めて2人しかおらず,しかも彼女は5歳のときにトラコーマに罹患 して弱視となっていた.8歳の時に母親が結核で死んでからは,ますます悲惨な生活となり,次々に兄弟たちは親戚の家に預けられ,ついにはアニーも10歳の時にアルコール中毒の父親に捨てられ,マサチューセッツ州立テュークスベリー救貧院に収容される.

同州には当時,空前の移民流入があり,食い詰めた人々を救済するため3つの州立救貧院が開設された.同救貧院もそのひとつで,1854年5月1日に500人の定員でオープンしたが,1週間後には定員オーバーの668人,5月20日には800人以上,12月2日には,2,193人も収容せざるを得なかったと記録に残っている.なお,この救貧院は1900年に当初の使命を終え,州立病院となり現在も存続している.

この救貧院の収容者中,その後もっとも有名になったのがアン・サリバンであったため,今日のテュークスベリー病院の建物の一棟は,同女史にちなんで命名されている.

当時,マサチューセッツ州サウス・ボストンにあったパーキンス盲学校に 移る前にアニーはこの救貧院で4年間を過ごすが,その生活は定員の何倍も人々が詰め込まれ,不潔で耐え難い環境であった.彼女はそんな中でも小さな図書室 を見つけ,大人たちにさかんに「本を読んで!」とねだったといわれている.そして,ある日,救貧院の状態を調査するためにマサチューセッツ州の慈善委員が やって来た.アニーは学校に行きたい一心でその委員の前に飛び出し必死の直訴を行い,彼女はパーキンス盲学校に入学出来たのである.

このとき彼女は14歳だったが,それまでまったく教育を受けたことがなかった.また,当時の盲学校の生徒は良家の子女ばかりだったので,彼女とは余りにも 家庭環境が違いすぎていた.アニーは教師や生徒とことごとく対立し,非常に挑戦的で厚かましい態度をとったという.このためとても孤立しており,彼女に友 人と呼べるのは目も耳も不自由であったローラ・ブリッジマンだけであった.アニーはローラとコミュニケーションをはかるためにフィンガーサイン(指文字) を学んだ.そして,アニーは眼科手術で視力もかなり回復し,必死に勉強して,ヘレン・ケラーの家庭教師に抜擢されたのであった.

ということだそうです.なお,先の救貧院には精神病院も併設されてお り,上の話が本当なら,アニーが入院していたのはこの病院だろうと言うことです.しかし,「定員の4倍以上もの収容者で足の踏み場もないありさまだった」 当時の救貧院で,アニーのために個室が与えられているはずはないというのが,『点字ジャーナル』の主張です.

でも,アニーが救貧院に拾われたのが10歳の時という史実と上の話は符合するし,父親に捨てられたショックで一時的に精神を病んだのかもしれないし,個室といっても精神病院の保護室は普通個室だしとつらつら考えれば,そう否定もできないんじゃないかとも思えます.

まあ,真実はともかく,いい話だし,信じればいいんじゃないかな・・・

と,いい加減な結論を出す,こにたんでした.

 

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